喫茶店やってみる

しょぼい喫茶店やってみます。

人を救うこと

しょぼい喫茶店を始める前や始めた当初、自分は人を救いたいという気持ちがあった。自分のように就活に躓いてしまった人、仕事が辛い人、人生が辛い人、死にたい人など、自分と似たような人が集まって辛さを吐き出せるような居場所を作りたいと思っていた。

でも、それは無理なんだとすぐに気がついた。妻を見ていてそう思った。妻はうつ病を患っていたが、東京に出てきて一緒にしょぼい喫茶店を運営していくなかで徐々に寛解へと向かっていった。顔色が明るくなったり前向きになっていく妻を見ていて、自分がそれにどれだけ影響できたのかを考えた。妻は自分の足で東京に出てきて自分から働きたいと言い始めた。結局、自分は自分でしか救えないのだと思った。語弊があるかもしれないけど、妻は勝手に救われてくれたんだと思う。そう考えると、自分に人を救うことなんてできないと思った。辛いことを話し合い共感し合っても、その場から一歩離れれば現実が待ち構えている。一時的に辛さを忘れられるかもしれないけど、救うことはできない。辛い現実と向き合って得た賃金をコーヒー一杯に変えてさせて、それで食う飯はうまいのか。相対的に現実がもっと辛くなってしまうかもしれないし、そもそも自分が誰かに影響してその人の環境を「改善」したとして、果たしてそれが当人にとっても「改善」なのかはわからない。死にたいと言う人を励ましたり慰めたりして死なせないということは、本当に「救い」なのか。死ぬことがその人にとって幸せということはないのか、この世が地獄だと思う人に生きろというのは、酷なんじゃないか。自分が救ったと思っただけで、本当は地獄に突き落としたんじゃないか。そう考えるようになった。

だから、ちゃんと商売をしようと思った。自分たちが商売をして生活をして生きていくのを見て、どこかの誰かが勝手に救われてほしいと思った。妻のときのように。

人は人を救えない。人を救おうとし続けるのは健全なことではない。それはわかっているのだけど、でも、身近な人やお世話になった人、好きな人が辛いと言っていたら救いたいと思ってしまう。どうにかして助けたいと思ってしまう。思うのだけど、でもだからといってどうすることもできない。自分はえらいてんちょうやカイリューさんに救われたと思ったけど、それは結局やり甲斐のある仕事やそれに伴うお金や安心して寝られるような家を手に入れることができたからだ。

1年前、自分はなんとなく人を救いたいと思っていた。今は、人を救うというのは本当に覚悟のいることなんだと思っている。人に居場所を与えるのは救いではない。本当に救いたいのなら、仕事を与え金を与え寝床を与えなければならない。自分がそうしてもらったように。なのに今の自分にはそれができない。そうするだけの力がない。本当に悔しいし情けない。無力さを痛感する。お世話になった人が辛いと言っているのに、その話を聞きながらありがとうございますと言ってお金をもらいコーヒーを出さなければいけない。そうすることしかできない。

自分がしてもらったことをいつか誰かにできるように、身近な人やお世話になった人が困っていたら助けられるように、とにかく今は頑張るしかないのだと思う。

 

 

崖の下から大声で叫び続ける

えらてんさんがピロヤンさんの記事を書いていた。

https://note.mu/eraitencho/n/n97cb2c39e747

色々な観点からピロヤンさんを考察していたけど、多くの人が漠然と不安に思っている「真っ暗な将来」をピロヤンは明るく歩いているんだ、だからなんでもない日常なのにあんなにたくさんの視聴者がいるんだ、というところに妙に納得してしまった。

思い返すと、自分が就活に失敗して行き詰まっているときに、すがる思いで手に取ったのは自己啓発本やビジネス本ではなくPhaさんの本だった。これからどうしよう。この先どうやって生きていこう。もう終わりだ。そんなことばかり考えていた自分に、ニートでもなんとなく楽しく生きていけるということを示してくれた。そして、えらてんさんのブログやツイッターで適当に店を開いてそれなりに働いていけば暮らしていけることを知った。

就活に失敗してしまった自分を肯定された、というと少し違う感じがする。あの時、自分は崖から落ちていた。真っ逆さまに。それまでの人生で、自分が歩いている場所が崖だなんて思ったこともなかった。スイスイ来た、とまでは言えないけど、まあ人並みの速度でそれなりに歩いていたと思う。それが就活というところに足を掛けた途端、急に足許が気になり始めた感じがした。「あ、ここは崖なんだ、ずっと崖を歩いていたんだ」と初めて知った。それに気がつくと、「落ちたらどうしよう、やばい、絶対に死ぬ」という思いから足がすくんでしまった。前を歩く友人たちは隊列を乱さず、中には肩組んでいる人や歌を歌いながら崖を歩く人たちもいた。きっと彼らはまだこの道が崖だということに気づいていない。それを見ると、ますますそこから落ちること、そして今こうして隊列を乱していることに恐怖するようになった。歩くことも、留まることも、そして落ちることも、そのすべてが怖かった。どうすることもできないまま目をつぶって「えい」と踏み出そうとした瞬間、崖はガタっと崩れてしまった。

死ぬんだと思った。すべてが終わったんだと。本当に真っ暗な奈落の底へ落ちている。

すごく長い間そんなことを考えていると、下の方からちょっと湿っぽく皮肉っぽくて、それでも楽しそうで幸せそうな声が聞こえてきた。

「そこから落ちても死なないから。大丈夫。やっていきましょう。」

そんな風に聞こえた。それはあの時読んだPhaさんの本だったり、えらてんさんや借金玉さんのツイートやブログだった。気がつくとそんなに怪我をせず着地していて、そこにはたくさんの人がいた。みんな生きていた。

そしてなんやかんやありつつも、今も自分はそこを歩き続けている。

声を大にして言いたい。落ちても大丈夫だと。崖から落ちても案外みんな生きている。もちろん、落ちて来いとは言わない。落ちないのならそれが一番いいし、そこが崖だと気づかずに一生を終えられるのであれば、そんな幸せなことはない。ただ、落ちてしまったらどうしよう、絶対死ぬ、あ、落ちちゃった、死ぬわ、と思っている人、大丈夫、死にません。落ちたら落ちたらでそれなりに楽しいものです。

今、崖から落ちまいと必死にしがみついている人には「がんばれ」と、そして落ちてしまった人には「大丈夫、死なないから。」と崖の下から大声で叫び続けたいと思う。

 

日記

最近はしょぼい喫茶店の1周年などがあった。まあ3ヶ月続けばいい経験になるしそれで潰れてもまだまだ若いから笑い話になるよな〜という感じで始めたけど、なんやかんやで1年続けることができた。たくさんの人たちのおかげだ。本当に心から感謝したい。コーヒーひとつとってみても、最初はかなり適当でアイスコーヒーとかはコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを氷がたくさん入ったグラスに直接ぶちこんでいた。かなでさんがコーヒーのことを色々と教えてくれて、水出し用のポットをくれたりコーヒーの淹れ方を教えてくれたりしたので、そこそこのコーヒーをそこそこのクオリティーで提供できるようになった。人気のチャイも難民社長から教えてもらった。ありがとうございますとしか言いようがない。

このブログが「喫茶店やってみる」というタイトルなのは、文字通りとりあえずやってみようと思ったからだ。YouTubeのやってみた動画的な。一時的な企画のような感じだった。それが今では生業になって喫茶店で生計を立てている。昨日えらてんさんと話していて、働くことの好き嫌いは食べ物の好き嫌いみたいなものだという話になった。セロリが普通に食べられる人はセロリが嫌いだという人がなんで嫌いなのか理解できない。俺もナスが嫌いな人がよく言う「ぐちゃっとした食感」みたいなのは理解できない。いや、あのくらいのぐちゃぐちゃ感の食べ物たくさんあるやんと思う。働くことも同じで、好きな人や特に苦にならない人は、働くことが本当に無理だという人がなんでそんなことを思うのか、理解できないと思う。実際に大学の友達はバイトが大好きと言っていたけど、俺はそれが理解できないし、たぶんそういう人にとってはバイトが死ぬほど嫌いみたいな気持ちは理解できないと思う。働くことは食べ物と違って、それでお金を稼がなければ生きていけないというイメージがあるので、食べ物の好き嫌いよりも重大な感じがするんだろうな。

でも、世の中にはたくさんの働き方がある。俺はたぶん就活と勤め人が無理だったんだろうなと思う。でも今は経営者として働いているから体力的にしんどい時はあっても精神的にしんどくなって、本当に無理だということはない。逆に勤め人はできるけど経営はできないという人も世の中にはいると思う。そんな感じで、アルバイトならめちゃくちゃできるという人もいるだろうし、在宅の仕事ならまったく苦じゃないという人もいると思う。同じ勤め人でも、営業は無理だけど事務に適性がある人や、その逆もあると思う。

結局、何が言いたいかというとやってみないとわからないということだ。その食べ物が好きか嫌いか、食べても特に問題ないのか毒になってしまうのか、とにかく食べてみないことにはわからない。それに、周りの人が応援して支えてくれるかどうかも、やってみないとわからない。喫茶店をやってみるまで、こんなにたくさんの人が応援してくれて、こんなに幸せな毎日を過ごすことができるなんて、あの時は少しも考えていなかった。とりあえずバイトしながらぼちぼち続けようくらいの気持ちだった。なんとなくでも喫茶店をやってみて、それを応援してくれる人がたくさんいることに気づいて、だから頑張れるという感じだと思う。応援してくれる人がいるというのはそれだけでモチベーションになるし、適性があるかどうかのひとつの尺度として見てもいい気がする。

自分が好きか嫌いか、周りが応援してくれるかどうか、とりあえずやってみないとわからないので、やってみるというのはけっこう大事な気がする。もちろん、ダメだと思った時にすぐに引き返せるかどうかとか、明らかにダメそうなものはやらないとか、そういうことはあるけど。

「喫茶店やってみる」というタイトルはなんというか、言い得て妙みたいなところがあるなあと自分のことながら思った。これから社会人になる人とかも、とりあえず「営業職やってみた」くらいの気持ちであまり視野を狭くせず、やってみて無理だとわかったり、あまりにも誰からも支持されなかったら、何か違うものを始めてみるとそんなにしんどくならないと思う。そんなことを繰り返して自分に合うものを見つけたり、応援してくれる人がたくさんいることに気づいたりしたら、そこで本気を出すみたいな生き方もいいのかなあと思う。

 

最後に繰り返しになりますが、1年間しょぼい喫茶店を応援してくださったたくさんの方に心より御礼申し上げます。そして、今後も何卒よろしくお願い致します。

 

 

 

 

最近のこと

最近のこと、

最近は特に何もしていない。本の原稿が書き上がり、プロモーションの段階に入った。プロモーションに対してコミットできることがないというか、まああるんだろうけど何をしたらいいのかわからず本当に商売というか、何かを売っていくみたいなのが下手なんだなあとつくづく思う。営業が下手というか。社会人向いてなかったなーと思う。

本、売れるのだろうか。レンタル何もしない人とかプロ奢も4月くらいに本出すっぽいしな〜なんか祭りのひとつで終わってしまったらどうしようという気持ちと、だからといって何もできずに情けない気持ちが最悪な感じで共存している。

最近はありがたいことに店に入ってくれる人がたくさんいてあまり自分が入らなくても回るようになってきた。当初早くそういう感じにしたいと思っていたのに、いざそうなってみるとやることがなさすぎて無に耐えられない自分の弱さみたいなものを感じる。無に愛されていないというのは、こういうことなんだろうな。本に関しても早く脱稿したいと思っていたのに、いざ脱稿してみるとやることがなくなってしまった虚無感に襲われている。カナダにいた時もそうだったな。就活が嫌でカナダに来て学校もない就活もない自由を手に入れたはずだったのに実際はそれを扱いきれない何者でもない自分と向き合うのが本当に苦しかった。ないものねだりというか、やることがあると早く解放されたいと思うのにそれが全て終わってしまうとさあ何をすればいいのかわからないという虚無感に苛まれる。なんやかんや言ってやることがあって忙しいというのは幸せなのかもしれないな。やることがあるとやることがない状態を羨むのに、本当に厄介だ。

死にたいわけではないのに人生が長いと感じる。俺はニートも無職も無理だし完全に現場を離れた経営者も無理っぽいな。でもガチガチの勤め人も無理っぽいし、バイトとかしよっかなとも考えたけど、バイトもしたくないな〜。なんかいい感じにやりがいになる趣味というか、ルーティーンみたいなのがほしいな。ちょっとだけお小遣いもらえたらラッキーみたいなやつ。いや、でもそれも無理そうだな〜新規事業とかも気力がなくて無理だ。何かするのもだるいし何もしていないのもまただるい。厄介だ。

なんか楽しいことないかな。

 

 

 

無の日記

暇だからブログを書く

 

最近のできごとでは、しょぼ喫の営業時間変更がある。理由はまあ色々あるのだけど、とりあえず早起きを頑張っていきたい。起きて店に行くということが大事だ。時間を前倒しするだけだから、睡眠時間はなんとなく同じくらい確保できそうな気がするな。順応していきたい。

夜営業は、募集をかけて日替わり形式にした。関係者が増えていくにつれ、父に教わったことを思い出す。経営者は、働いてくれる人が気持ちよく働いてくれる環境を作るのだとよく聞かされていた。だから、誰よりも早く行って掃除をして、段取りをして、働いてくれる人が来たらすぐに気持ちよく仕事が始められるようにするのだと。それに自分の仕事が加わるので、帰るのが1番遅くなるのは当然のことだとも言っていた。最近それをよく感じる。どうすれば楽しくやってもらえるのか、どうすれば不満が言いやすくなるのか、ない頭でいろいろと考えている。まだ始まっていないので、答えが出ていなくても仕方ないのだけど、正直、不安や心配は尽きない。昨日とかはけっこうそんな感じで、うわーっとなりかけたのだけど、とりあえず目の前のことをしようと思って、掃除をしたりビールを補充したり看板用の写真を撮ったりした。動いていると目の前のことに集中するので、漠然な不安が少し楽になる。特にキャベツの千切りはよかったな。ひたすら包丁を動かして無になれる。まあいろいろと思うところというか、不安な部分はあるのだけど、とりあえずこうやって目の前にあることを誠心誠意やっていくことが大事なのだと思った。それが積み重なっていけば、なんとなくいい感じになるのではと思う。

うわーっとなってうわーっと全部投げ出してしまいたい気持ちになるのを、ひと息ついてすこし落ち着いて、目の前の小さなことに向き合うことが大事だ。

それにつけても、やっぱりおりんさんがいてくれることがすごくありがたい。1人ではひと息つこうにもあーだこーだと色々考えてしまう。少し休もうと声をかけてくれて、冗談を言ったりお菓子を食べたりしながら休憩すると、うわーが落ち着いて、さあやるかという気持ちになる。2人でうまく補い合いながら、声をかけ合いながら休み休みやっていきたい。

無の日記

暇だからブログを書く

 

この前しょぼい喫茶店でモーニングをやってもらった。9時開始で開始と同時に5人くらいお客さんが来ていた。すごい。モーニングに需要があるというのもそうなのかもしれないけど、それよりモーニングをやってくれたかなでさんに人が付いているのだと思った。あそこまで気持ちよくハキハキとした声で、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」と言える人はなかなかいないと思う。発達障害があるから、まあこのくらいでもいいやという考えにならず、だからこそちゃんとするところはちゃんとしようという気持ちがすごく伝わってきた。障害も病気もそうなのだけど、自分を救えるのは自分しかいないことを理解して、どうにかしようと向き合っている人は本当にかっこいい。やっていっているというやつだと思う。上から目線で恐縮なのだけど、モーニングを任せてよかった。安心して任せられるので、のびのびと楽しくてやってほしいと思う。欲を言えば、いい感じに儲けてほしいという気持ちもあるので、うまく協力してやっていきたい。

 

 

無の日記

暇だからブログを書く

 

最近の出来事としてしょぼい喫茶店のオープン100日目があった。意外とやっていけることがわかった。100日間の知見はツイッターでまとめた。たぶん他にもあるのだけど、思いつくのだけ書いた。

経営と聞くとなんだか難しそうな感じがするのだけど、要は支出を抑えて収入を増やせばいいだけの話なのだと思う。利益を生まない支出を抑えればいいということで、えらてんさんの店に住めというのは、結局のところ自分の部屋は住むだけでなにも発生しない支出なのだから、店に住めば利益が発生する支出になるということなのだと思う。飲食店ならご飯を多めに作って余ったのを売れば食費から利益が発生するようになる。生活費と経費を合算するイメージというか、生活と商いの一体化するイメージというかそんな感じだと思う。たぶんエニカとかもそんな感じなんだろうな。

それともう1つ大事なのが、人を大切にするということだと思う。店というのは、モノではなく人なのだと学んだ。例えば新しいコンロに2万円払ったとする。それは確かに便利で使いやすくて料理が効率的になるのかもしれないけど、長期的に見るなら人に2万円払ったほうがいい。その人は新しいコンロを無料でくれるかもしれないし、新しいコンロを持っている人を紹介してくれるかもしれない。その人に会うためにお客さんがたくさん来てくれるかもしれないし、何かすごいアイデアを思いついてくれるかもしれない。コンロに2万円払っても料理が出来るだけだけだけど、人に2万円払ったら何かもっとすごいことが起こる可能性がある。モノがなくても人さえいればどうにかなる。まあ2万円払う前はちょっと考えて、人を選んだほうがいいのだけど。だとしても、よくわからないモノに1000円とか出すなら人に1000円あげたほうが後々いいことがある。モノに払うお金はなるべく抑えて、人に払うときは少額でもちゃんと出したほうがいい。

単純に1人じゃ無理だろうなあということもある。私はタイミングを見て0から1を考えるのが得意なのだけど、その1を100にすることが苦手だ。おりんさんは私の考えた1を整理したり発表したりして100にも200にもしてくれる。本当に助かる。ありがたい。接客にしてもそうで、私の無愛想な接客だったら、お客さんはこんなにつかなかったと思う。人には得意不得意があるので、そこをカバーし合えるのは、やはりモノではなく人なのだと思う。

 

こんなことを考えていると、人生がどうのとかいうことを考えないようになる。よくお金のことばかり考えている人は銭ゲバとか呼ばれて揶揄されるのだけど、人生のことをあーだこーだと考えているより、これをやったら儲かりそうとか儲かったら誰に回していこうだとか、お金のことを考えている方がよほど健全なのだと思う。もちろんバランスはあるのだけど、人生について考えている人に幸せそうな人はまあほとんどいないし。人生についてなんて、死ぬ間際に振り返って考えればいいのだ。それまでは、なんとなく楽しそうなことを考えて、その楽しそうなことを思い切り享受して、幸せを感じながら楽しく生きていればいい。

 

そのためには、とりあえず嫌なことをしないのが1番だろうと思うので、今後も嫌なことからは徹底的に逃げていきたい。嫌なことはしなくても生きていけるし、それだけでけっこう幸せなのだから、そんな感じでやっていきたい。